歴 史 遺 産
南足柄市には県・市の指定文化財が48ヶ所あります。
ここでは矢倉沢とその周辺の歴史遺産・文化財を紹介します。
矢倉沢関所跡
天正18年(1590年)~慶長17年(1612年)の間に設置されたと言われており、江戸時代に箱根の脇関所として小田原藩が警護に当たっていまし
た。
矢倉沢往還は武士よりも商人を始め一般庶民の通行が多かったとされ、箱根関所と比べ緩やかな関所だったようですが、関所破りもあったようで近くに「磔場」と言われる場所があります。開所は明け六つ(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)まででしたが、近隣の農民は農具を見せれば暮れ六つを過ぎても通してくれたそうです。
矢倉沢裏関所跡
関場の矢倉沢関所が矢倉沢往還をおさえたのに対し、裏関所は矢倉沢本村から矢倉岳の西尾根を越え、山北の谷峨関所へと抜ける道をおさえるための番所として機能しました。ここには68間(約122m)に渡る柵が設けられ、防備を固めていました。旅人を通すことはなく、村民が田畑や山へ行くときに限って門を開けたと言われています。
旅籠通り(関所通り)
芭蕉句碑のところに出た足柄古道は県道78号線を横切って西へ斜めに下ります。そこは矢倉沢関所跡に続く通りです。江戸、明治、大正時代に掛けて、道の両側には旅籠、米屋、油屋、豆腐屋などが軒を連ねていたそうです。大和屋、江戸屋、立花屋、車屋、釜成屋など今でも屋号が残っています。
明治2年関所が廃止されてからも、富士講や大山講、伊勢講の人に利用されていました。明治6年の大火で旅籠を始め10軒が消失してしまいましたが、数年後には再建され営業を再開したそうです。
足柄古道
別名を足柄道とも言います。古代に都と東国を結ぶ官道として多くの官人や武人が往来した日本でも有数の重要な道でした。日本武尊の東征があった大和時代は古事記にあるように、駿河から足柄峠を越えて横須賀から安房へと渡る経路でした。 江戸時代箱根を通る東海道が制定されると、足柄峠越えのこの道は「矢倉沢往還・大山街道」などと呼ばれ、東海道の脇往還として機能しました。矢倉沢往還は東京赤坂見附から静岡県の吉原まで通じていました。
松尾芭蕉の句碑(県道78号線、箱根登山鉄道地蔵堂行き、東山バス停前)
目尓かかる 時きや古とさら 五月富士
安政4年(1694年)松尾芭蕉最後の上方帰郷の際この道を通り詠んだとする説もありますが、芭蕉翁行状記などから、足柄道ではなく雨の箱根路を越えたと言う説が有力であり心象風景として詠んだのかも知れません。
当時この地には俳句を嗜む人が多くいたと言われており、芭蕉を慕う人々が村おこしを兼ねて立てたのでしょう。
道祖神
路傍の神、村の守り神と言われる道祖神が地区内に6基あります。当地では「セエノカミサン」と呼んでいます。塞の神(サイノカミ)が訛ったのかも知れません。地区の中心、道の辻などに立っています。村人たちが、五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄などを願い、地域の人々の厚い信仰によって昔から守られてきたのでしょう。何れも双体像で、男女が寄り添い仲睦ましく立っています。
写真左の像は1784年(天明4年)の建立で、昭和20年代の道祖神の祭りの日には、この近くにむろを作り、子どもたちが中に入り太鼓の練習などをしたと言います。
道祖神 (どんど焼き)
今はあまり使われなくなりましたが、小正月の1月14日は道祖神のお祭りである、せえとばらい(どんど焼き)が、子ども会を中心に行われます。地区内の広場にキャンプファイアーのように薪を積み櫓を組みます。中心には先端に弓矢を付けた長い青竹を据えます。周りに松の枝や杉の枝、篠竹を立てそれを荒縄で巻き付け、そこに道祖神に上げられた、大掃除のすす払いに使った竹、不用になったお札、お守り、松飾り、達磨などを運んできて入れ、地区の消防団立ち会いで火を付けます。数十年前までは、1月4日に「松引き」という行事があり、この日にどんど焼きの櫓を組んだと言いますが今は年末のうちに作ります。
夕方火がつくと、米粉で作った赤、青、白の団子を持った地域の人たちが集まります。これを針金に通し、子どもたちが用意した長い篠竹の先に付けて焼きます。この団子を食べると風邪をひかないと言われ、家に持ち帰り家族で食べます。
また子どもたちは書き初めを丸めて火の中に放り込みます。これが高く舞い上がると字が上手になると言われ、火勢に煽られて空高く舞い上がると歓声が沸きます。
写真中央は雨露から守るため藁小屋に入った道祖神で、毎年「さいとばらい」の日に近所の人々の手により、新しく葺き替えられます。右は地区の中心の四つ角にある道祖神です。